内心の自由

平和な日本で安倍元総理が射殺された。総理であろうと一般人であろうと、いかなる理由があろうと、銃で命を奪うことは許されない。
私の主義主張とは違うが、安倍元総理の死を心から追悼したい気持ちは持っている。岸田首相は国葬として死を悼むと発表した。

言うまでもなく、国葬は全額税金によって賄われる。税金で賄われる国葬になると、追悼したいと思う人も、そうでない人も区別なく国葬に参加させられことになる。
私は悼む気持ちを持っているが、、悼む気持ちを全く持っていない人まで強要されることになる。税金を使っての国葬はそう言うことである。

国が決めたことに、死を悼む観点からも、大っぴらに反対を唱えることは憚られる風潮が日本にはある。無宗教で執り行うことが決まったが、死と宗教は切り離すことが出来るのか。
安倍元総理の国葬は、私が信仰する仏教と神道の形式でと追悼したいと思っている。安倍元総理の死を悼むのか、否かは私の内心の自由である。悼むか否かは個人の自由である。