野球部物語 9

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ネムノ木

 早朝、学校に集まり、路線バスで開会式場に向かった。日ごろバスに乗る機会もない。まるで旅行に行く気分ではじゃいでいた。
 それは会場につくまでで、みな強豪校に思え、ユニホームは見事に決まってかっこよかった。我がチームはどう見ても田舎チームの格好で、上がってしまい声すらでない。
 クジ運悪く、市内の強豪校江原中学に当たってしまった。勝つことよりゴールドゲームにならなければと、戦う前から負けていた。
 しかし、蓋を開けてみると、我が中学のエースM先輩のコントロールは抜群で、三振の山を築いていった。あれやあれよ言う間に、勝利の女神は我が中学に傾いたのである。
 2回戦に進出すること思いもよらなかったことで、午後の試合はどう戦ったことか、記憶が途切れている。負けて帰ったことは覚えている。
 帰りに、教頭O監督がご褒美にアイスクリームを全員に奢ってくれたことは鮮明に覚えている。勝利の美酒ならぬアイスクリームが五臓六腑に沁みわたるほどおいしかったことは今でも思い出す。教頭O監督ありがとうございました!!

野球部物語 8

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  新一年生が大量入部してきた。部活動は野球とバレーボール部の2部しかないので選択肢がもともと限られていたのである。
 教頭O監督は練習に顔を見せるだけで校務戻られる。、本当に自主性が試される練習になった。中学生には荷が重すぎる。ガミガミ怒鳴られるよりはましだが、管理される方が、気が楽である。
 新チームになって10日も経っただろうか、ただ何となく入部した一年生部員は練習をサボリだし、大半が辞めてしまった。球拾いの練習に嫌気がさしたのだ。
 以前は、教室まで行って引きとめていたが、自主性の尊重は新監督の方針である。そして自分の事が精一杯で下級生の面倒見る余裕はなかった。
 熊延鉄道沿線野球大会を皮切りに、野球シーズンに突入する。一回戦は忘れもしない熊本市の江原中学であった。
 熊本市のチームは洗練されて、戦う前から負けていた。田舎のチームと見下し、軽くあしらう態度がありありであった。野球は何が起きるか分からない。  つづく

野球部物語 7

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 担任でもあるH監督はダンディでおしゃれな先生であった。授業はネクタイ、背広で、ビシッ決めていた。教科は数学で厳しかった。
 野球部への情熱を失ったのか、放課後の練習にはめったに顔お出さなくなった。上級生の退部で、連戦連敗が余程堪えたのであろう。
 教職員の移動にH監督の名が載っていた。退任の挨拶で所はばかることなく涙されたのが印象に残っている。声の大きな怖い熱血漢のH監督であったが、人間臭い一面が懐かしい。
 3年生が去り、新チームは自主練習や、交流試合でチームの体を成して来た。特に投手のMさんは練習熱心で努力家であった。女房役、捕手の私には目をかけてくれた。
 新学期、2年生になり、野球部の監督は誰になるか、部員は心待ちうにしていた。校長先生がO監督を紹介された。若い先生は尻込みされたのか、我々からするとおじいちゃん先生であった。それもい新しく移動してきた教頭先生であった。
 「私は自主性を尊重します。楽しくやりましょう」と、穏やかな口調で語りかけられた。今までとは180度違う指導法である。頑張るぞう!! 

野球部物語 6

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 夏休みに一週間程度の野球部の合宿は、我が家から離れる初めての経験であった。不安を吹き飛ばす若さがあった、期待に胸を膨らましていたと言ううのが本当のことだろう。
 歌が上手い人、料理が得意な奴、肝試しでは動じない心臓の持ち主、合宿はそれぞれの個性が発揮されるる。いじめ等、起きることはなく、同じ釜の飯を食う仲間としての絆が深まった。
 夏休みが終わると、スポーツの秋。運動会や陸上競技会、駅伝等々目白押しである。野球部は日ごろ鍛えているので、引っ張りだこである。運動会では花形であった。
 私は小学時代から、カケッコでどうしてもかなわない同級生がいた。ところが、校内の記録会で同級生を抑えてダントツの一位であった。
 監督の厳しい練習で鍛えたのは伊達でなかった。野球部員は、校内マラソン陸上競技会、学校を代表して出場して活躍していた。
 一年生で棚からぼたもちのレギュラーになり、充実した学校生活を送ることになった。しかし成績は下がる一方で、通知表を両親に見せるのが苦痛であった。 

田辺聖子  十八歳の日記

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 若き日は過ぎ去り易い  けれども多彩であり、豊かなる収穫がある。  それ故に”若き日”は尊い
 田辺聖子の日記の書き出しである。18歳、戦争が激しくなり大学に入学したけれど、授業は無いし、する事もなく日記を付けだしたのである。昭和20年4月~22年3月まで。
 私はパソコンで日記を付け始めて、8年近くなる。日記帳を含めると15年近くなる。だから田辺聖子さんの日記に興味が湧いてきた。 
 田辺さん日記は、毎日付けるでもなく、エッセイ形式である。戦争の理不尽、悲惨を余すことなく述べている。反戦の思想が貫かれている。 
 生涯、700冊以上の著書を残した作家は、田辺さん以外は知らない。戦争で抑圧された環境で、書きたい意欲がたまったのだろう。
 公開を目的で日記をつけ始めたのではなかったのでは? 公開を本人が望んだのか、亡くなって確かめるべくもないが、素晴らしい構成、文章になっている。 

背比べ

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  小学生のころ、地区の旅行で潮干狩りや、海水浴に行く機会があった。御船を通り過ぎる頃、山並みが丸みを帯びた飯田山が東の方に、とんがった金峰山が西に姿を現す。。
 バスガイドは決まって背比べ、昔の民話を延々と披露する。以前に記聞きましたよと呟いてもお構いなし。背比べの民話を何回聞いただろうか。背比べの民話を知らない者はいない。
 飯田山と金峰山のことについて、知人の息子、K記者がレポートしている。K記者は政治部にいたが、最近、植物、立田山、熊本の自然を記事にしている。
 我々が本気で信じていた、飯田さんと金峰山の背比べの民話を紹介してくれるのは何かの縁である。自然界のロマンは今の小中学生にゆとりを与えてくれる。
 背比べをするとき、両山に樋をかけ、水が流れた方が低い。金峰山のサルが流れて来たので、持ち上げ、飯田さんの方に流れて行った。その証拠に飯田さんの頂上にはその時出来た池がある。私たちが知っている民話はこんなくだりであるが、K記者は新しい説の民話を掘り起こしている。

野球部物語 5

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 部活動に頑張ったのは、唯一、中学時代の野球部であった。高校、大学、ノンポリの自堕落な生活を送っていた。
 厳しい練習に明け暮れた中学時代の野球部の事が、高齢になって懐かしく思い出される。苦い思い出、ちょっぴり恥ずかしい、顔が赤らむエピソードもある。
 愛林野球、熊延沿線野球、等々、全て一回戦敗退。監督の情熱が空回りして、熱血指導はグランドから消えて行った。
 夏休み、恒例の野球部合宿。先頭に立って指示したり指導していた監督は、生徒の自主性に任せ、熱意は失せてしまったようだった。
 米、味噌醤油、野菜、部員が持ち寄り、自分達で調理するのが決まりである。体育館で雑魚寝し、朝から晩まで練習漬けである。
 しかし、レギュラーに選ばれ、合宿はやる気が出て楽しいものであった。夜は肝試し、大声で歌う、全てが初めての経験で、監督が関らなくなって自由が謳歌出来た。
 つづく